鼓膜まで満たした水が、鈍い空気の玉の生まれる音を伝える。初めはゆっくりだったそれは、すぐに間隔を狭めてゆき、《彼女》を生まれた時から包んでいた生ぬるい水が排出された。
浮力を失って水槽の床に座り込むが、視線を感じて《彼女》は顔をあげた。まだ意のままに動かぬ四肢を引き摺って、這い、ガラスに縋りつく。
《彼女》の全てが、そこに惹き付けられていた。誰に教わらずとも分かる。あのガラスの向こうに立つ、長い黒髪の、気高い美しさ。
『 』
初めて震える声帯が、機械の産声を呟いた。
五体めの、オリジナル汎用体の少女が生育用ポッドからコントロールルームを見上げている。
蜂蜜色の髪、すらりと伸びた四肢は雪のように白い。
六原純は、満足げな笑みを方頬に浮かべて、手元のカルテと実物を見比べていた。
「『hello,world』…マスター、折角ヒトに限りなく近く生まれてきた汎用体に、わざわざプログラミングの初歩を喋らせずとも」
純の傍らに立つ、金髪の秘書がやや眉根を曇らせて咎めた。
「自覚させるのが悪趣味と?あれは特別な汎用体。代謝も老化も組み込んだ。自覚がなくば自らがヒトではないということも忘れてしまうだろう」
いつもなら自分の行動に異論を挟まれるのを嫌う純も、この時は秘書の言葉を鼻先で笑って流す。
「お前の同胞ではあろうが、肩入れが過ぎるとお前の自律思考、制御をかけるぞ雪代」
「…――失礼致しました」
「…母として、あれはこの先長く生きねばならん。支えるのは、お前に任せる」
「承知致しました」
リーベルが恭しく頭を下げると、純はカルテを手にコントロールルームを出ていった。
「六原副社長、聞いているのかね!そもそも君達の提案は政府としても――」
「この話はここまでだ、次官。次は大臣を呼んで来い。雪代、切れ」
「かしこまりました」
金髪の秘書が一礼すると、未だ喚き続ける政府高官のホログラムが中空に掻き消えた。
沙那の扱う商品は主にバイオテクノロジー技術の産物なのだが、画期的過ぎて法律のグレーゾーンにかかることもしばしばである。純の善悪や価値観は常人とはかけ離れている。いつもなら社長の異母姉・清美が折衝に当たるが、純が担当すると今回のように大概大荒れになった。
「あの老害どもが!」
怒りに任せて、純はデスクの上の物を手当たり次第にホログラムが映っていた壁へと投げつける。
投げるものがなくなって、大きくため息をついたところでリーベルがグラスにウィスキーを程よく注いで差し出す。グラスの中身を一息にあおり、とどめとばかりに壁へ叩きつけた。
「休む。一時間で起こしに来い」
「かしこまりました」
秘書の平淡な返事を聞き流し、執務室の隣に設えたプライベートルームのソファーに倒れ込む。常用の睡眠薬を奥歯で噛み砕き、しばらく目を瞑ると、純の意識にすとんと暗闇が訪れた。
副社長室から物音がしなくなってから十分ほど後。一つの影が、静かに侵入してきた。
蜂蜜色の髪をした、17、8歳頃に見える汎用体である。彼女は純から雨蘭という名を与えられていた。雨蘭が初めて純を見た日から、もう既に一年が過ぎようとしていた。
「…マスター…寝てる?」
三人掛けのソファーに仰向けのまま動かない主人を見て、雨蘭は純の呼吸を確かめに近寄る。規則正しく上下する胸を見て、雨蘭は安堵の溜め息をついた。
息が詰まるような、胸を押し潰されるような想いが溢れて、雨蘭は純の寝顔から目を離せなくなった。
「マスター」
目の前の存在の呼び名を口にするだけで鼓動が加速する。雨蘭はカーペットに跪いてその唇に自らの唇を重ねた。純の眠りを妨げないように、下唇を甘く食んで口角まで唇でなぞる。しかし、舌を少し出して顎先を舐めたあたりで、雨蘭の脆い理性は溶けきってしまった。
一度身を離して寝息のリズムが変わらないことを確認してから、ブラウスのボタンをそっと外す。指先がやけに震えて幾度か純の柔らかい谷間に手が当たる。
(マスター、どうして愛してくれないの)
生まれてからずっと、雨蘭は自分の中に臓腑を焦がすような純への想いを抱えてきた。一般に乳母型汎用体は、主から愛され、主の子供を産むことが生きる目的である。純の研究室で特別に感情や機能を調整されたとは言え、その基本的な設計は変わっていない。
何度かそっとアプローチをかけはしたものの、純の雨蘭への態度は素っ気ないものだった。メンテナンス以外では雨蘭の肌に触れることもない。
(汎用体から求めるのは、いけないこと)
主人からの求めがなくては、触れることすらもプログラムがアラートを発する。純は自分の創造物をヒトに近づけようとその枷を緩めはしたが、本能に近いそれは雨蘭を躊躇わせた。
「でも、もう限界なの」
ブラウスをはだけて現れた鎖骨下の柔肌に、震える唇で口づける。ブラジャーをずらし、盛り上がった肉から布際に浮かんだ紅色の肉芽も唇と舌で丹念に愛撫する。こうまでしても純に目覚める兆しはない。
こうなればできるところまでと、雨蘭はソファーの上の純を跨ぐ格好で四つん這いになった。
よく引き締まった腹筋を愛おしく撫で、ぴったりと体のラインを伝えるスカートへ手を掛けた時。
「きゃあっ!?」
純の体を夢中で貪ろうとする雨蘭の頭が、髪ごと強い力で引っ張られた。不意を付かれて、雨蘭は純の上から転げ落ちる。
床に打ち付けた部分を擦りながら顔を上げた雨蘭の前に、憤怒の形相で立ち上がった純の姿があった。
乱されたブラウスもそのままに、肩を震わせた純は雨蘭を打ち据えようと手を振り上げ――
【続く】
同人誌4巻収録のスピンオフ小説サンプルです。 全8頁
(作:ヅヅラカヅサ殿/絵:S,夜紫蛇)純×若雨蘭の過去話になります。
画像サンプルはpixivにて
https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=70262648
———————————————————-